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二次創作の更新履歴など
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父が亡くなったのは僕が八歳の時だった。
本因坊六期目の防衛戦に敗れて一ヶ月後、五十二歳、心筋梗塞だった。
早生まれで高校卒業式の一週間後に父と結婚し、僕を産んだときまだ十八歳だった母はまだ二十六歳だった。
母は二年後、父の三周忌の後に再婚した。相手は六歳年下の本因坊光為、本名は進藤ヒカル。父から本因坊を奪った人だった。

一時期週刊誌が記事にしようとし僕も校門の前で待ち伏せされ取材された。記者は僕から彼への恨み言を引き出したがっていたがそんなことはできなかった。父と彼の七番勝負はどれも半目勝負の名局揃いだった。そして今でも彼と母の間には常に父がいる。

二十六歳違いの母を父は溺愛していたそうだ。父には大恋愛の末に結婚した先妻がいたが母の生まれる一年前に交通事故で亡くなっている。母はこの先妻にそっくりで名前も同じだった。

母は早くに両親を亡くし母方の祖父に育てられた。この曾祖父が父のファンで後援会にも関わっていた。母が高校三年生の夏、記録的な猛暑のせいか曾祖父が亡くなり身寄りのない母が一人残されてしまった。曾祖父の葬儀で初めて会った母を父が強引に引き取り、複数いたらしい女性たちと綺麗に別れたそうだ。彼女らは両親が結婚した後も家に出入りし何もできなかった母を教育したらしい。母は懐かしげにその当時のとこを語ったし僕も家や父の碁会所で何度も彼女らに会ったことがあった。

僕が初めて彼にあったのは僕が四歳、彼がプロ一年目の十六歳の時だった。彼は体調不良による二ヶ月の休養から復帰したばかりで異母兄で父の一番弟子だった緒方さんが研究会に連れてきてくれたのだった。僕は当時十三路盤から十六路盤にかわったばかりでうれしくて誰彼構わずに家に来る人に対局を申し込んでいた。父に会いに来る人はプロやアマチュアでも高段者が多かったから簡単に決着がついて仕舞うのだがきちんと検討までしてくれる人は稀だった。ひどい人になると十手もゆかないでわざと中押しで負ける人もいた。そんな中、彼は研究会に参加するために来たはずなのに何局でも僕に付き合ってくれきちんと僕の敗因を教えてくれ僕がよい手を打ったところはほめてくれた。

彼は端から見て判るほど父を崇拝していた、その彼がプロ四年目の二十歳の時 本因坊戦一次予選から上がってリーグ戦まで上がった。そして挑戦者となり最終局までもつれ込んで父から本因坊を奪った。

父の通夜の間 呆然としたままの彼は翌日の出棺のとき無言のまま涙を 流した。まるで真珠のように綺麗な涙だった。

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